香港
面積総計1,104km2(183位)
総計(2016年)7,374,900人(100位)人口密度6,544人/km2
GDP 3341.04億ドル(35位)1人あたり64,794ドル(日本44,246ドル)
香港主権移行(返還)
中英共同声明署名1984年12月19日
香港特別行政区成立1997年7月1日
香港の人口は、93.6%が華人、6.4%はその他の民族である。香港の広東語話者の大多数は主に隣接する広東省が起源であり、1930年代から1960年代に中国での戦争や共産主義体制からイギリスの植民地であった香港に逃れて来た人々である。1839年から1842年のアヘン戦争後、香港は大英帝国の植民地として設立された。香港島が最初にイギリスに永久割譲され、1860年に九龍半島が割譲、1898年には新界が租借された。
太平天国の乱(1851年 - 1864年)、義和団事件 (1900年 - 1901年)、辛亥革命 (1911年-1912年)、日中戦争などが原因で、香港には難民が続々となだれこんだ。植民地人口の約半分が香港島に住み、残りが九龍半島または舟に居住した。
この水不足問題が、後に英国が、租借していた新界及び割譲されていた香港島も含め、現在の香港全領域を返還せざるを得ない状況を作った。
第二次世界大戦 (1941年?1945年) の間、イギリス軍が瞬く間に放逐されて日本に軍事占領され、1945年8月までそれは続いた。この戦前から現在まで、香港は慢性的に水不足である。戦後は中華民国に返還されずにイギリス統治が再開され、1997年まで続いた。一方、植民地時代の積極的不介入方針は現在の香港の文化および教育制度の形成に大きく影響した。なお、香港の教育制度はおおむね英国式であったが、その後2009年に制度改革が実施された。
1984年12月19日返還声明があり、イギリスは中華民国ではなく中華人民共和国をその返還・譲渡交渉相手に選び、中華人民共和国間との交渉及び中英共同声明の結果として、香港はイギリスから中華人民共和国に返還・譲渡され、一国二制度の原理の下、1997年7月1日に最初の特別行政区になった。
その影響で、共産主義の一党独裁政府である中華人民共和国の支配を受けることを喜ばない香港住民を不安に陥れ、イギリス連邦内のカナダやオーストラリアへの移民ブームが起こった。
1989年に北京で六四天安門事件が発生すると、香港では再び移民ブームが巻き起こった、大部分の香港移民はイギリス連邦の構成国であるカナダのトロントやバンクーバー、シドニーやシンガポールに向かった。1999年12月にポルトガルから移譲されたマカオも特別行政区である。
現在も香港は中国大陸とは異なる政治制度を有する。香港の独立した司法機関はコモン・ローの枠組みに従って機能する。共同声明において正式に記された条項に基づいた返還以前に、中華人民共和国側により起草された定款である香港特別行政区基本法において香港の政治は行われ、国際関係及び軍事防御以外の全ての事柄において高度な自治権を有することを規定している。なおこの自治権は中国中央指導部の委任・承認に基づき地方を運営する権限であり、完全な自治権、地方分権的なものではないとされる(2014年6月10日中国国務院白書)。
香港は複数政党制であるが、立法会の70議席のうち30議席を少数の有権者が支配し、先進経済諸国の中では政治的権利において最下点で欠陥民主主義に分類される。
香港は東京、ロンドン、ニューヨーク、シンガポール、上海と並ぶ世界都市の1つであり、世界的に重要な国際金融センターに格付けされ、低税率及び自由貿易を特徴とする重要な資本サービス経済を有し、通貨の香港ドルは世界第8位の取引高を有する。
香港は世界有数の一人当たりの所得を有するが、先進経済諸国有数の所得格差もまた存在する。スペースの不足により高密度な建造物の需要が生じ、現代建築及び世界で最も垂直な都市の中心へと都市は開発された。高密度な空間は高度に発達した交通網ももたらし、公共交通機関の利用率は90%を超え、世界第1位である。香港はさまざまな側面、例えば、経済的自由並びに金融及び経済的競争力において多数の高い国際ランキングを有する。人間開発指数は全面的に高く順位付けされ、知能指数は世界で最も高い地域にもなっている。隣接する中国本土からのPM2.5による大気汚染及びスモッグは香港市民の健康面への影響は懸念されるが、香港市民は男女ともに平均寿命で世界一 になるなど非常に長寿である。